タニヤ通りの“タニヤ”ってどういう意味?
どうしてこのような日本語だらけの街がタイのバンコクにあるのだろうか?
タニヤ通りが始まったのは1970年代なので、もう半世紀もの歴史がある。
タニヤ通りの隣にある、世界的に有名な繁華街のパッポン通りが、ベトナム戦争の米兵の娯楽地としてゴーゴーバーで栄えだしたのが1960年代であった。ベトナムの戦場から休暇のときにやってきた若いアメリカ兵たちでにぎわった。
その時代のタニヤは、まだ、運河と民家があるさびれた田舎の路地だったという。
当時のこのエリアの地主が、パッポン通りは「パッポン」、そしてタニヤ通りは「タニヤ」という名前の人だったためこのような地名になった。
タニヤの始まりの頃の様子
当時、タイに出張でやってきていた日本の商社マンたちは、パッポン通りやスラウオン通りの一角にあるクラブで打ち合わせをしたり日本から来た取引先や上司の接待をしていた。
1970年、タニヤにオフィスビルのタニヤビルディングが完成して日本企業がいくつか拠点を構えてから、そのおひざ元のタニヤ通りに日本人商社マン向けのクラブやバーができはじめた。
現在でもある老舗の「クラブ愛」は元々パッポン通りにあったが、このころにタニヤ通りに移転してきた。タニヤ通りの草創期からの店は他に、「ワンウェイ」が現存している。
初期のタニヤには2、3店しかクラブがなかったそうだ。
行列ができる店も登場
1980年代に「プラザ合意」によって円高とアジアへの投資が進み、タイに進出する日本企業が増える。タニヤ通りにはクラブが激増して最盛期は100店近くにもなった。
これらのクラブには日本から運ばれたレーザーディスクやカセットテープのカラオケマシーンが置かれて人気を博したので、タイ人もこうした店のことを「KARAOKE」と呼ぶようになった。
タニヤの店舗の数は増えていたがそれでも、夜な夜なカラオケを訪れる日本人客は多数だったため、店の前に椅子を出して、順番待ちをしているお客の行列ができるほどだったそうだ。
このころはタニヤ通りだけではお客がおさまりきらないので、スラウオン通り、シーロム通りにもカラオケ店があった。
タニヤのメイン客層が海外旅行客へ変わった理由
その後、1990年代になると日本ではバブル崩壊となり、企業の海外進出や接待が減少。日本国内同様、企業の経費削減で会社の交際費で飲める“社用族”がタイ、そしてタニヤからも減り始める。
1990年代中盤以降は、現在に至るまで数年の例外を除いて円高が続いたため、日本国内の景気は沈んでいたが、海外旅行に出る人が増えた。
そのためタイ旅行に行く日本人観光客も増加。タニヤも主な客層が現地の社用族から観光客へと転換していく
インターネットの普及で、これまで知られていなかった海外の夜遊び情報が広まったこともあり初めてタイへ夜遊びに行く人も増えている。日本のキャバクラや風俗とは異なる、タイ人ホステスの良い意味で素人ぶりがぬけていない牧歌的なキャラクターや、色気やサービスの過激度が改めて評判だ。
2000年代後半にはLCCが出現して、日本からタイへ行く航空路線が増え、さらに安く便利にタイへ行きやすくなったことも、この傾向を強めている。
2021年には、前回の1990年の改装から30年が経過したタニヤプラザが大規模改修されてリニューアルオープンした。ルンピニ公園の向かいにあるデュシタニホテルや、BTSサラデーン駅前、そしてスラウオン通りにあったゲイストリート「ソイ・トワイライト」などの再開発も同時進行で始まっている。24時間営業のショッピングモール・シーロムエッジも登場し、タニヤ通りを中心としたシーロムエリアは、さらに新しい観光スポットがこれから誕生していく予定である。